最近、AIについて考えているうちに、ふと尾崎豊さんの「僕が僕であるために」を思い出しました。
ちょうど高校一年生のころ、あの曲を聴いたときに、私はかなり打ちのめされた記憶があります。
「若いのに、どうしてこんなことを考えられるのだろう」
そう思いました。
自分がまだぼんやりとしか感じていなかったことを、あれほど強い言葉で表現している。
そのことに圧倒されました。
そして、そのとき初めて、
「ああ、自分には才能がないな」
と思ったことを覚えています。
今思えば、それは少し苦い経験でした。
でも、同時に、とても大事な経験だったのだと思います。
自分には圧倒的な才能があるわけではない。
そう思えたからこそ、人のすごさを認めるようになりました。
他人をよく見るようになりました。
簡単に自分を過信しないようにもなりました。
そして、少しずつですが、経験から学ぶことを覚えたのだと思います。
尾崎豊さんから教えられたことは、もう一つあります。
それは、才能があっても、飛ばしすぎると人はもたない、ということです。
もちろん、尾崎豊さんは本当に惜しい人でした。
もっと長く生きて、もっと多くの作品を残してほしかった。
そう思います。
でも一方で、当時の私はどこかで、
「これでは、やっぱりもたないのではないか」
とも感じていました。
強すぎる感受性。
自分を削るような表現。
社会とのぶつかり方。
自分であることを求め続ける苦しさ。
若いころは、それを才能の輝きとして見ていました。
でも、年齢を重ねた今は、少し違って見えます。
才能があることと、人生を長く走り続けることは、同じではない。
早く遠くまで行ける人ほど、壊れやすいこともある。
そんなことを、私は尾崎豊さんから感じ取っていたのかもしれません。
そして、それが今の自分の考え方にもつながっている気がします。
人生で大事なのは、才能だけではない。
勢いだけでもない。
正しそうな言葉だけでもない。
大事なのは、物事の本質を見ることなのだと思います。
いま何が起きているのか。
自分は何に反応しているのか。
どこに無理があるのか。
何を続けるべきで、何を止めるべきなのか。
自分は本当は何を大事にしているのか。
そういうことを、少しずつでも見ようとする力です。
これは、派手な力ではありません。
若い才能のように、一瞬で人を圧倒するものでもありません。
でも、長く生きていくうえでは、とても大事な力だと思います。
仕事でも、家庭でも、投資でも、人間関係でも同じです。
表面的にうまくいっているように見えても、本質を外していると、どこかで無理が出ます。
逆に、派手ではなくても、本質を見ながら、自分の歩幅で進んでいる人は、意外と強いのだと思います。
もう一つ、最近よく思うことがあります。
人生の意味付けは、自分でやればいい。
若いころに「才能がない」と思ったこと。
誰かに圧倒されたこと。
自分の未熟さを知ったこと。
思うようにいかなかったこと。
その場では、苦い経験です。
でも、あとから振り返ったときに、
「あの経験があったから、今の自分がある」
と思えることがあります。
尾崎豊さんに打ちのめされた記憶も、私にとってはそうです。
あのとき、自分には才能がないと思った。
でも、そのおかげで少し謙虚になれた。
人を見るようになった。
自分の力だけで突っ走らないようになった。
そして、人生を少し長い目で考えるようになった。
そう考えると、あの衝撃にも意味があったのだと思います。
人生は、人から与えられた評価だけで決まるものではありません。
才能があるかないかだけで決まるものでもありません。
成功したか、失敗したかだけで決まるものでもありません。
自分がその経験に、どんな意味をつけるか。
そこに、その人の人生が出るのだと思います。
AIを使えば、いまは文章も資料も、それらしく作れてしまいます。
でも、最後に問われるのは、やはり自分の中に何があるかです。
何を大事にしているのか。
何に違和感を持つのか。
何を選び、何を選ばないのか。
そして、自分の人生にどんな意味をつけるのか。
そう考えると、尾崎豊さんの「僕が僕であるために」という言葉は、今の時代にも深く響きます。
僕が僕であるために。
自分が自分であるために。
そのためには、誰かの才能に圧倒された記憶も、
自分には才能がないと思った苦さも、
自分なりに意味づけしていけばいいのだと思います。
才能だけでは、人生は走り切れない。
でも、本質を見ようとしながら、自分の歩幅で進むことはできる。
今の私は、そんなふうに思っています。


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